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わが酒歴

わが酒歴

 ブログに載せるには抵抗がある。一夜煩悶したが公開することにした。裸で生まれた。裸で生涯を終えよう。(以下推敲なしの書き殴りお許しの程を)

             平成28年11月

 

 

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第1章

 


転校


「カバンはここに掛けるといいよ」 髪の毛の縮れた女の子が机の横のフックを指差して言った。鞄の置き場所が分からずまご まごしていた私はほっとした。
転校前は一学年2クラスしかない村立中学校であったが今度の学校は12クラスも ある郡内最大のマンモス中学校だった。男生徒は詰襟の制服を女生徒はセーラー服を身奇麗に着ていた。 私は圧倒され初日は殆ど口を開かなかった。
そして、始業前のこの騒がしい教室の中に私と酒との縁を取り持つ一人の生徒がいること をその時の私は全く知らなかった。中学3年の2学期が始まる残暑厳しい昭和28年9月 の朝のことであった。
職員室の前の廊下が騒がしい。新しい学校にも慣れてきた私は親しくなった前野君らと駆 けつけた。中間テストの成績表が欄間の上に横長に張り出されていた。私は目を疑った。 私の名前が2番目にあった!
暫くは心臓の鼓動が静まらなかった。
前田君の家は町の中心部ながら閑静な奥まったところにあった。彼の父親は近隣の小学校 の教頭だったが酒が好きで解放的な人だった。母親も元教員で大らかな優しい人だった。 私はこの家庭の雰囲気が好きで殆ど毎日遊びに行くようになっていた。
「お千代さん一杯飲め」
彼の父親が言った。当時の人気俳優であった東 千代の介に似ているというので私はそう 呼ばれていた。父親のいない私は嬉しくなって飲んだ。差しつ差されつ飲んでいる間にだ んだん気分が高揚して楽しくなってきた。
酒の味は全く分からず寧ろ無理やり口に含んでは飲み込んでいた。古色悠然たる旧家らし い庭の正面には楠の大木があり鴉が騒いでいた。これから半世紀にわたる私の酒まみれの 行く方を暗示するかのようにーー


一気飲まされ

「止めんか!止めろ!」 仰向けのまま両手を前田君に両足を吹野君に押さえつけられて起き上がることができない。
突然のこと腕力の強い前田君の兄貴が片方の手で私の頭を押さえもう一方の手で一升瓶の 酒を私の口に注ぎ込んだ。
いつの間にか気分が朦朧となりその後のことは記憶にない。気が付くと誰もいない部屋 は夕闇に包まれクツワムシの大合唱が聞こえていたような気がする。 「お千代さんマンボズボンをあげるよ、爺さんが明治時代に穿いていたらしい」 と前田君が黒いズボンを持ってきた。なるほど裾幅が細くて今流行のマンボズボンにそっ くりだ。その場でくたびれた自分のズボンと穿き替えた。そしてそのころ普通の家庭には 滅多になかった電蓄をがんがん鳴らしてマンボを踊った。セレサローサの曲が歯切れのよ いリズムを刻んだ。このようにして私と前田君との交友は次第に深まっていった。

 

酒飲みの家系

 私は6人兄弟姉妹の次男として 1937 年に旧満州で生まれた。父は満州東北部の拉古とい う駅の駅長であった。終戦の前の年に私は小学校に入学したがそのとき父は35歳であっ た。父はしょっちゅう家に客を連れてきては酒を飲んでいた。父の胸は酒やけで赤かった ことを何故か鮮明に記憶している。 「初めてのお客さんだったみたいだけど誰?」母が問い質した。 「知らない。道で出会った人だ」
父の答えはこんなふうであった。 また父方の祖父は60歳そこそこで他界しているが酒に纏わるエピソードがある。田舎
の学校の教員をしていた祖父は宿直のときは決まって学校の裏の田んぼから自分で田螺を 取ってきてはそれを肴にチビリチビリやっていたらしい。私はこの酒飲みの祖父と父の血 筋を受け継いで生まれてきたのである。

 

父との別れ
「日本人が先だ、支那人は後だ」 怒鳴りながら父は列車に殺到する支那人を剥ぎ取るように排除しながらわれわれ家族を列 車に押し込んだ。そのとき既にソ連軍が国境を越えて隣の牡丹江に迫っていた。 「俺は後で追いかけるから逃げられるところまで逃げるんだ!」 連結器やステップにまで人を乗せた避難列車は動き出した。やがてプラットフォームに直 立不動の姿勢でわれわれの乗った列車を見送る父がいた。そして父を見るのはこれが最後 となったのだ。
疎開先の撫順で4歳の妹を喪ったものの母はわれわれ4男1女を引き連れ昭和21年7 月に母の実家である九州に引揚げた。

以後母子家庭として苦難の日々が始まるのだが酒暦を記すのが目的であるから割愛する。

 

高校時代
 高校入試が迫っていた。毎日のように参考書を抱え気の会う友人数人と前田君の家に集 まった。1時間も勉強をすると酒盛りが始まった。やがて腹が減ると近くの屋台から玉う どんを買ってきて皆で素うどんをこさえて食った。そして参考書を枕に朝まで畳の上で雑 魚寝するのであった。やがて入試に合格し高校生活が始まった。
ある日、仲間と酒を買って帰る途中に運悪く生活指導の先生に捕まった。 「その一升瓶は酒じゃないのか?」 「いや醤油です、おふくろに頼まれました」
私は即座に答えた。
「透き通った醤油もあるのか」
粋な計らいであった。
しこたま酔ったわれわれはなおも仲間の一人である河田君の家に場所を移して飲み直す ことになった。彼の家は特飲街で飲み屋を営んでいた。 「あんたたち高校生になったんだからもう立派な大人だよ」 真っ赤な口紅に雀の巣のような髪をした女が言った。店には5,6人の女がいた。飲み疲 れて寝てしまいやがて目が覚めるとほの暗い部屋に海豹のように横たわる友人と女らの姿 があった。こうして私はいつの間にか不良グループの一員を気取り学業成績はみるみる低 下していったのである。かくして大学志望校も下方修正され結局は成績に見合った某国立 大学の受験票を胸に上京したのだった。

 

     第2章

 

東京へ  
 線路の両側から覆い被さるように聳えるビルディングに胸が躍った。現在の高層ビルとは比べるべくもないが田舎者の私は仰天した。昨日の午後に九州を発った寝台列車が有楽町駅を通過するところだった。昭和32年2月、大学受験のため父方の叔母を頼って上京したときのことである。
 まもなく志望校に合格はしたものの入学せず叔父が重役をしている鉄鋼商社に就職した。
就職先は決まったものの出社するまでに凡そ10ヶ月間の待機期間があった。寄宿先の叔母には私より一つ年下の一人息子がいた。彼はまだ高校生であったが退屈している私を得意になってあちこちの遊び場を案内して回った。横寺町の家から程近い神楽坂の喫茶店「エリーゼ」にほぼ毎日通った。この喫茶店は芸者さんたちが屯する店であった。彼女たちと顔見知りになり初めてウィスキーハイボールを飲み都会人になったような気がした。
「こんど映画に連れて行こうか」
親しくなった千代子姐さんに誘われた。クワイ河マーチの曲が流れる暗闇の中で彼女と握り合った掌は汗ばんでいた。
遊び呆けて帰宅すると
「あんたはお酒が好きだね、兄さんとそっくりだよ」
父の妹である叔母は言った。
そんな具合で酒を飲んでも一切お咎めなしであった。
 そうこうするうちに年の瀬も迫り初出社の日を迎えた。鉄鋼4課という営業の部署に配属された。

 

新入社員  
「新入社員の福山です。当社花井常務の甥です。よろしくお願いします」
配属先の課長が取引先の人に私を紹介した
「常務さんには日ごろから大変お世話になっております。私のほうこそよろしくお願いいたします」
と年輩の相手は私に頭を下げ答えた。こうして社内外でちやほやされる環境で私は新入社員となった。会社は政商といわれる社長が興し戦後急激に業績を伸ばして破竹の勢いであった。社員は大学卒と都内の商業高校卒で占められ私のように田舎の普通高校卒は一人もいなかった。当然のことで仕事は出来ずプライドのみが高い私は影では鼻つまみ者であったに違いない。
 ただ一つ取り柄といえば酒が飲めるということであった。飲めば面白く振舞い相手を喜ばせる術を既に身につけていたのだった。そんなわけで新入社員の身分でありながら客先の接待には重宝がられる存在となっていた。交際費の札束を忍ばせて客先を連れてバー、キャバレー、割烹料亭などを梯子して得意になっていた。このようにして36年間にわたる私の会社人生がスタートしたのだった。

 

仙台へ  
 やがて高校卒のコンプレックスに悩み昭和34年に中央大学の夜間部に入学した。
「福ちゃん、錦糸町に良い店を開拓したから今夜飲みに行こうよ」
苗字の一字から私は会社でこう呼ばれていた。こんな調子で仕事がひけると先輩に誘われるまま飲みに行き独身寮へのご帰還は深夜となることがしばしばであった。
(おいおい学校のほうはどうなったんだ!)
斯くして単位不足のため卒業までには5年を要することとなるのである。
 卒業と同時に仙台支店勤務となった。東北地方は地酒が美味い。出張先では各地の酒を堪能した。独身寮では夜な夜なバーやキャバレーへ繰り出し所謂独身貴族の生活を謳歌するのである。
 突然のこと会社がM物産に営業権を譲渡し事実上吸収合併されることとなった。昭和39年のことである。

 

アルコール依存  
 会社合併の年に結婚。翌年に生まれた生後半年の娘を伴い千葉支店へ転勤。さらに数年を経て本社食品部へ。同時に通勤時間が2時間弱もかかる近郊に家を新築する。そんなこんなで、この間の日々は慌しく私の人生において唯一、健全な酒の飲み方? をした時期であったと思う。浅間山荘事件などがあった頃のことである。
 やがて、自ら希望し再び仙台支店勤務。やがて秋田出張所へ転任するのであるが秋田は東北のなかでも地酒の美味いところである。通勤時間も短く事務所も繁華街にあった。仕事の関係で酒を飲む機会も増えたがそれにも増してプライベートで飲むことが多くなった。そのころから手が震えて字を書くのに困難を感じるようになっていた。生来の緊張症も加わりゴルフのスタート前や記帳せねばならない冠婚葬祭の前には手が震えないように必ず酒を飲むようになっていた。このようにしてさまざまな場面に於いて緊張を解すためにもアルコールへの依存度が次第に深まっていくのである。

 

麻雀  
 雪に埋もれた秋田の冬は長い。果てしなく降り続く雪。全てが埋め尽くされてしまうのではないかと恐怖心すら湧いてくる。この恐怖心を紛らわすために雪国の人々はよく酒を飲むのではないか? そんなことも無いであろうが兎に角よく飲む。「キリタンポ鍋」、「しょっつる鍋」を囲みながら飲む地酒の美味さは格別である。飲み過ぎさえしなければ秋田の冬は寧ろ快適だ。
「また箱点か、あと半ちゃんやろう。こうなったら朝までだ」
と負け続けている私が言う。
「明日があるからこの辺で止めようや」
と冷静な清水さん。
「何言ってんだよ、明日は明日の風が吹く
酔いが回って気が大きくなった私の言葉で結局は夜明け方まで麻雀は続くのであった。翌朝、二日酔いのまま自己嫌悪に苛まれながら出社したあの嫌な気持ちは今も忘れられない。

 

酒のうえで   
「君はその言葉を撤回しないんだな」
「する必要はありません、人事権を振りかざして部下を動かそうとしても私には通じません」
飲んだ勢いが全く無かったとは言えないが、権力には絶対屈服しないとの私の構えは停年まで消えることはなかった。翌朝出社すると
「昨夜、君が言ったこと、撤回する気は無いんだな」
「毛頭ありません」
「分かった」
所長は冷静を装って言い放った。その後のことは押して知るべしである。昇進は遅れた。
 酒もよく飲んだが、それなりに仕事もよくやったと自分勝手に思っている。大きな組織のなかより自由の利く小さな組織のなかでのほうが自分は実力が発揮できると勝手に思い込んでいた。従って小規模な秋田出張所に7回もの春を重ねることとなるのである。

 

鹿児島へ  
「流れえー流れてえー世間に拗ねてえー今日はー函館えーあしたーは釧路おー」
1番の歌詞も2番の歌詞ももう分からない。石山さんと肩を組んで飲み屋街を千鳥足で歩いた。
 秋田からここ鹿児島に転勤して既に3年が経っていた。
「課長、ティーアップの時は上着を脱いでください!」
ゴルフ場に着いてから私はクラブハウスで可なり飲んでいたので背広の上着を着たままティーグランドに上がっていたのである。スコアなどはどうでもよかった。酒を飲んで回ることだけが楽しかった。人は私を面白い人だと言った。本当はスタート前の緊張に耐えかねて飲んでいたに過ぎなかったのだが。

 

焼き鳥や  
 やがて世に言うバブルが弾けて会社でもリストラが始った。そして私は子会社へ出向の身となった。そこでは今までと違って始業時間が早くなった上に夜中まで残業する日が続いた。
「マスター今夜はここに泊めてもらうよ」
「ああいいよ、今から帰宅しても寝る時間は無いからね。明日の朝ここから会社へ行ったほうが楽ですよ」
 この日から私は家へ帰らずこの焼き鳥やから会社へ直行する日が多くなった。暫くこのような状態が続くうちに私は勝手に店の冷蔵庫を開けてビールを飲み、店の家族と一緒に飯を食うようになっていた。つまりここの家族同然となっていたのである。会社の事務所に居るときと寝ているとき以外は酒に酔っていた。当然のことながら体は疲れ果てカンフル剤のように酒を飲み続けた。このような生活が長続きするわけが無い。とうとう私はアルコール性肝機能障害で3ヶ月間の入院を余儀なくされるのである。

 

入院  
 入院して暫くは点滴注射などがあったがその後は何の治療もなかった。友達になった相部屋の人とお喋りをしたりテレビを見たりで一日が終わった。時折、取引先の人が見舞いに来るほか部下が毎日の仕事の報告に来た。自らの日課として屋上に上り一人でラジオ体操をした。見下ろすと必ず女子高校生らが校舎の周りをランニングする姿があったのを今に思い出す。
 入院したのは暑い盛りの7月中旬であった。3ヶ月は永かった。やがて明日に退院をひかえた病室の窓外には中秋の名月が輝いていた。
「退院祝いだ!いま見回りに来たばかりだから大丈夫だ」
同室の男が缶ビールを差し出しながら言った。そしてもう一人の意気投合した男と3人で乾杯をした。
「退院したら一緒に飲もうや」
「分かった。是非とも訪ねて来いよ」
私は自分がアルコール機能障害で入院したことをすっかり忘れてしまっていた。

 

        第3章

早期退職  
 退院の後、暫く自粛していた酒も仕事上のプレッシャーもこれあり元の木阿弥となってしまった。
相変わらず、焼き鳥やに入り浸り外泊も増えた。隣県に住む姉夫婦が私の乱脈振りを心配して来てくれたこともあった。
 とき恰も会社では早期退職者を募る動きが活発となりしばしばその説明会が催された。丁度その時期に長女が東京で結婚式を挙げたがその披露宴では一滴の酒も飲まなかった。この時だけはここで醜態を見せてはならないとの意識が働いたのだと思う。
 長期に会社を休んだことが負い目となり仕事が辛くなっていた私は早期退職を決意した。
時に満55歳と2ヶ月であった。こうして35年間の勤めを終えた。
 毎日が日曜日となった私は家の一室に閉じこもり朝から酒を飲んだ。夜になると件の焼き鳥やへ行き仕事のことを気にすることもなくなったので存分に飲んだ。そして会社時代に行きつけの飲み屋へ顔を出しては元の部下と一緒に飲むこともあった。未だ部長と呼ばれるのが嬉しかった。

 

再就職  
 やがて、まだ遊んでいるような年齢ではないと思い地元の小さな新聞社に再就職した。記者見習いとなりワープロも覚え自分の書いた記事が紙面に載るのが嬉しかった。自分はこの仕事に向いているのではないかとさえ思い嬉々として働いた。安い給料など問題ではなかった。
 平成5年夏、鹿児島地方を豪雨水害が襲った。会社から帰途のこと冠水で車が動かなくなった。私は車を道路に放置したまま、こともあろうに行きつけの店で酒を飲みながら徹夜麻雀を始めたのである。わが家のことを顧みることもなく。
 半年足らずで新聞社を突然に辞めた。人事異動で県南部の支局長を命ぜられ肩書きはよいのだが記者の仕事のほかに新聞の拡販をも課せられたからだ。いま思えば辞めなければよかったとつくづく思うのである。長い年月にわたり酒の毒に汚染された頭は正常な判断力を欠いていたとしか思えない。
 そして再び毎日が日曜日となった私は終日家に閉じこもり酒を飲み続け、夜になれば盛り場へ急ぐ生活が始ったのである。
 

離婚  
 新聞社を退職してから半年ほど経って妻の母親が亡くなった。葬儀のために家族を連れて妻の実家へ向かった。葬儀を終えた次の日のことである。唐突にも些細なことで私は妻に離婚を通告し程近い私の実家へ転がり込んだ。初七日も済んでいないというのに。あっけない家族との別れであった。
 そして実家にほど近いところのアパートに独り住まいが始ったのである。家出人同然であるから着替えの一枚から揃えねばならなかった。80を超えた母は弱った身体に鞭打って必死に息子の世話を焼き翌年には他界するのである。
「どうしたんだ!あれーー福さんかー」
行きつけになっていたスナックのマスターが飛び出してきて開かなくなった車のドアーを押し広げ隙間から私を引っ張り出した。ほろ酔いでその店に入ろうとした私は誤って道路の縁石に乗り上げ石塀に激突してしまったのである。ローンで買ったばかりの外車であった。今もそのブロック塀に痕跡が残っており、そこを通るたびにその時の悪夢が甦ってくるのである。

 

紅灯の巷へ  
 市の中心部より車で十五分ほどの温泉付別荘団地に小さな家を建て移り住んだ。車の事故から9ヶ月後のことである。娘の一家と永年同居していた母は不肖の息子の面倒を見ながら一緒に暮らしたいと土地代を出してくれたのだ。家の建築資金は私が二十年のローンを組んだ。同居を始めてから3ヶ月後に母は体調不良を訴え入院し還らぬ人となった。私はその一月あまりを殆ど病院に泊り込みで看取った。
 閑静な温泉地での生活は快適であり酒に関しては家で晩酌をする程度の平穏な日々であった。しかしこの生活も長くは続かなかった。ある日、退屈していた私はタクシーを呼んだ。飲み屋街はタクシーで片道1800円ほどの距離にあった。
 「運転手さん何処か良い飲み屋に連れて行って呉れないか」
「分かりました。楽しいママさんが居る店へお連れします。客の評判いいですよ」
 10人ほどで満席となる小さなスナックバーであった。40代に見えるママさんらしき女が一人っきりの客と話し込んでいた。その日、、私はほとんど無視された状態で独りで飲んでいた。そして私は今夜を契機に毎晩のようにタクシーを飛ばしてこの店に通う羽目になろうとは露ほども思っていなかったのだ。

 

行きつけの店  
 「最初に店に来たとき髪はぼさぼさで何と陰気な客だろうと思っていたよ」
ママが言った
「俺は何と無礼なママかと思っていたよ。この店に来るようになってから4年も経ったんだなーー」
私はカウンターに座ってから二箱目のパーラメントの封を切り一本抜いて口にくわえた。すかさずママが火を点ける。午前2時だ。既に看板の灯は落としてあり外に客は居ない。キープしたばかりのローヤルが空になった。学歴は中学卒ながら彼女はよく本を読んでおり感性も豊かで話がよく噛み合った。江国滋の『おい癌め酌み交わそうぜ秋の月』を貸してくれたりもした。
 明け方近くになり呼んでくれたタクシーで帰宅し真っ暗な玄関の鍵穴を探すのに難儀した。昼近くに目が覚めると言いようの無い不安感に襲われ寝床の中で缶ビールのプルトップを引き息もつかずに空にした。

 

梯子酒  
 酔い醒めには得体の知れぬ不安感に襲われるようになっていた。それを打ち消すためにビールを飲む。丁度そのころ家の近くに居酒屋兼食事処が2軒も開業した。昼になるとこの何れかの店で飲み飯を食った。両方の店とも馴染みが深くなり自分の家に居るように振舞うことができた。いつものように昼飯を食ってだらだらと飲んでいた私は宵闇が迫るのを待ちかねたように
「ママさんいつものタクシー呼んでよ」
「あまり飲みすぎないで行ってらっしゃいよ」
私はいそいそといつものスナックへ向かうのであった。大抵は私が一番乗りの客であり、まだ看板の灯を点す前であったとしてもお構いなしであった。暫く飲んだ後は必ず、
「ママさん一寸行ってくるよ」
「あんまり遅くならないように帰っておいでよ」
「分かった」
そして二・三軒を梯子してから再びこの店へ戻ってきて飲み直し例外なく最後の客となるのであった。

 

短歌  
 気まぐれで投稿した短歌が読売新聞西部歌壇の石田比呂志選に秀逸で掲載された。
 ・木苺の落つる山陰歩めれば不覚自然の涙零るる
平成8年6月のことである。酒浸りの日常旦暮にあって此れが契機となり次々に短歌を詠むようになった。
(小綬鶏の鋭き鳴き声を一瞬に吸収したる杉木立はも)
これも同じ歌壇の安永蕗子選でやはり秀逸に採られた。成人してから全く晴れがましいことに無縁であった私は嬉しくて短歌が掲載された新聞を飲み屋に持参し見せて廻った。場違いもいいとこだがお構いなしであった。
「お客さんは唯の酒飲みじゃなかったんだねーー、大したもんよねーー」
言われて得意であった。家に居るときは一日中酒を飲みながら歌を詠みノートに記した。家の周囲はは雑木林で四季折々の自然が歌の素材となった。


アル中入院  
 私は入院を決意して離れ住む長女の運転する車でアルコール依存症治療病棟のある太陽病院に向かった。平成十年八月の暑い盛りで折しも病院の玄関前には萌えるようなカンナの花が咲き誇っていた。
(酒断つとわれ降り立ちし病院の玄関の前カンナが紅し)
 短歌に一つの生甲斐を見出しはしたものの飲酒は一向に止まるところを知らなかった。そして偶々受診した市立病院の内科医に進められて自らこの病院を訪ねる気になったのであった。問診だけでアルコール依存症と診断された。この病院には80人ほどのアルコール依存症の患者が入院していた。患者の日課は朝起きてから抗酒剤の服用とラジオ体操から始った。食堂兼ホールにはいつも煙草の煙が充満していた。酒を禁じられた患者は喫煙の量が増えるのである。
夜になると薬のため意識が朦朧となった患者が床の上に転がっていた。また脱走して所謂禁固部屋に入れられ喚いている者もいた。

 

退院そして再び  
 患者の生活は自治会組織で運営され朝のラジオ体操に始り朝礼、朝食、掃除と続き「断酒会」や「AA」と言われる会にも出席が義務付けられていた。患者の大半は生活保護を受けていたが中には元大学教授、元新聞記者、元大会社の重役などもいた。
 やがて退院を1週間後に控えたころ私はソフトボールの試合中に転倒し右足のアキレス腱を断裂した。そのため自宅近くの市立病院に転院し手術。3週間後に退院した。
 断酒の誓いが反故となるのに数週間も要しなかった。
「久しぶりだあー、何処へ行っていたの?何ヶ月も来ないでさぁ!」
ママは素っ頓狂な声で迎えた。こんな具合に私は退院してから1ヶ月も経たぬ内に紅灯の巷へ復帰したのであった。
 以前にも益して酒量は増えた。抗酒剤を服用中にアルコールを口にして呼吸困難となり近くの病院で点滴を受けることもしばしばであった。

 

車が横転  
 私は毎晩のように通ったスナックバーを出入り禁止になったことがある。薄々覚えているが酔った勢いで私が椅子を振り上げて店の客に殴りかかったからである。叩いても入れて貰えない店のドアーの前に酔いつぶれて朝まで蹲っていたことを思い出す。
(灯の消えしスナックバーの戸の外に居座るわれを猫が見て過ぐ)
 人声がして窓ガラスが割られ横倒しになった車体から私は引きずり出された。たまたま通りかかった人からの通報で消防署の救急隊員が駆けつけたのである。飲酒運転の私はクランク状になった道路を曲がりきれずに左側の土手に乗り上げ転倒したのである。

 

再婚  
 何時ものように飲んで帰宅した深夜のこと机の上に放置された彼女からの暑中見舞いの葉書が目についた。文面いっぱいに開いた花火の絵柄が印象的であった。そして私は必然の行為のように名古屋に住む彼女に電話をかけた。彼女とは3年前の中学校同窓会で45年ぶりに会ったのみであった。その席では互いに一言も口をきくことは無かった。しかしお互いが離婚し現在独り者であることは自己紹介で知っていた。突然の電話に彼女は戸惑った様子であったが可なり話が弾んだような気がする。これが縁で彼女は看護師の職を辞し生まれ故郷でもある九州へ戻り私と再婚することとなるのである。平成13年1月のことであった。その時は未だ断酒しようなどとは露ほども考えていなかった。

 

誤算から気づきへ  
 所帯をもってから数日を経ずしてこの結婚が大いなる誤算であったことに気がついた。結婚前には韓国旅行の土産としてコニャックの高級品をプレゼントしてくれた彼女が豹変したのである。外へ飲みに行くことは愚か家での晩酌も彼女は徹底して嫌った。私はこの変化に戸惑った。酒のことで諍いとなり新婚生活が破綻寸前になったことはしばしばであった。酒の無い生活など私には想像も出来ないことであった。夜な夜な通ったスナックバーでは夫婦連れの客が仲良くカラオケを歌っている光景をよく見かけた。私はこのような夫婦の在り様を理想として夢見ていたのである。

私は断酒による手の震えを止めるために密かに料理酒を盗み飲みした。また不意に襲ってくる不安感に堪えるため昼間から布団を被って寝ることもあった。そんなある夜のこと寝床の中で私は考えていた。
人間とし私が生まれてきたのは何故か。生まれて来るのが私でなくて他人でもよかったら私が生まれて来るはずは無い。酒に酔っている自分は本当の自分ではない。本当の自分を生きてみよう。苦しみや悲しみを酒に誤魔化すことなく真正面から受け止めて生きてみよう。いったい50年前に俺が酒を飲み始めたのは何故だ? 転校により学業の成績は下がり、速かった徒競争も勝てなくなった。優越感が劣等感に変わった。酒を飲んで不良っぽく振舞っていれば他人から注目され心地よいことを知った。酒が美味いから飲むのでは決してなかった。飲めば怖いもの知らずになれた。
 後に会社にあっても然りである。酒は己の劣等感を覆い隠し、持ってもいない優越感を与えてくれた。そして私は面白く可笑しく振る舞い仕事もよく出来る振りをすることができた。或るときはバッカスの恩寵によりスーパーマンのマントが与えられ空を飛ぶことさえできた。しかし他人は私が本当に空を飛んでいるのを見たことがあったであろうかーー無いはずだ。
 積年のアルコール分が脳内から抜けていくに従って徐々に健全な思考回路が形成されつつあったのである。

 

決意 
 中学校時代からの友達夫妻が遊びに来た。彼は私の妻とも同級生なので共通の友である。昼飯を一緒に食おうと近くの飲食店に入った。私は妻の顔を見て一寸だけ躊躇したが
「取りあえずビール1本」
とオーダーした。客と食事をするときは先ずビールの一本も飲むものだという長年の習慣が身についていたのだ。
「断酒中だから駄目!」
すかさず妻の声が飛んだ。その迫力に友人夫妻も店員も困惑の表情を見せた。私も一瞬怯んだ。
「飲むなら私は帰る!」
言うなり妻は本当に店を出て行ってしまった。
一瞬、気まずい空気が漂ったが
「お紀美さんが言うとおりだよ、断酒しているのなら飲まないほうがいいよ」
と友人が言った。
「酒を飲まないと、こうやって友達を失くしてしまうんだ」と言い訳がましく呟く私に友人は尚も慰めるよう言った。
「そんなことはないよ、飲んでも飲まなくても友達は友達だ」
友人のこの言葉に私はたまらず不覚の涙を拭った。3人は言葉少なに飯を食った。食事が終わり金を払おうとする私にレジの人が言った。
「3人様のお食事代は奥様が後ほどお支払いに来られるとのことですから結構です」
 酒のことで妻が友人夫妻を前に決然と席を立ったその夜のこと私は眠れなかった。いまだ嘗てこれほど妥協無く執拗に私に断酒を迫った者が周囲にいたであろうか。いやこの妻をおいて外に居なかった。諌めてくれる者は数多くいたがーー。私は酒故に今まで幾人の人たちを傷つけ苦しめてきたことか。同時に自分をも傷つけてきたことか。全て酒故にだ。何故の酒だったのか。本当の自分を生きてみよう。虎の衣ならぬ酒の衣を脱いで。
半世紀にわたる悪夢から目を覚ますのだ。今度こそ完全なる断酒を決行しよう。
 妻の寝息だけが聞こえていた。

 

無明の酒  
 最初に断酒を決意してから5年目を迎えた。紆余曲折はあったが今では一滴の酒も口にしないで済むようになった。また宴席にあってウーロン茶で乾杯することにも違和感が無くなった。
 思えば半世紀にわたり喘いだ無明の淵から無事に生還できたのは何と言っても非情とも思える妻の飲酒阻止があってこそのことである。同時に私の内面に生じて徐々に醸成された天意ともいうべき気づきの声に後押しされたこともまた事実である。
即ち『自分は何のために生まれてきたのか』の問いかけに対する回答としての「断酒」なのである。酒で本当の自分を眩ませてはならないのだ。
 そして平成15年に「無明の酒」を上梓した。酒まみれの日々に唯一の生きる証として作り溜めた短歌の400首あまりである。更に翌年それをホームページのコンテンツの一つとして加えた。
 酒のない人生は誠に爽やかである。

 ただ、或るとき、喉の奥に突き刺さった1本の棘の痛みに耐えねばならぬことは、如何ともし難い。死後の骨の中にも決して晒してはならない、その棘の痛みを。   完
              

                         平成18年盛夏