無明の酒 

 跋

「無明の酒」まことに相応しい題名ではあるまいか。ともあれささやかながらもここにこうしたかたちで日の目を見ることになった作品の数々は拙いが、正真正銘彼の歩んできた人生そのものであり魂のつぶやきである。
 彼が短歌を作るようになった切っ掛けは、彼自身が「あとがき」に述べているので省くが、本来ならば人様に晒したくない部分を敢えて一本に纏めたことはよくよくの覚悟があっての事だろう。しかし、共に短歌に励んできたものにとってまた彼の姉としてその事を喜ぶ。
 
 いざ飯を食わんと声に発すれど応答のなし独り身なれば
 今生の断酒誓えば仏壇の父母の写真がまたかと笑う
 夜の街に転びて己たしなむる我とわれあり同行二人
 
己で蒔いた種とはいえ己自身どうにもならない心の葛藤を見る。泥沼から這い上がろうとする理性も酒の魔力によって引きずり下ろされてしまう。しかし、そんな彼にも縁あって再び生涯の同行者を得ることが出来た。彼女のお陰できっぱりと酒を断つことができて何より喜んでいるのは亡き母であることを彼は忘れてはならない。
 
雄物川の鯉は底いに沈めるや肥後国原に初雪が降る
 
願わくば沈める鯉よ目覚めて再びよき歌を得よ。先ずは、歌集「無明の酒」おめでとう。

                                                             平成十五年一月  石川 弘子

 

 あとがき

平成六年二月ここ熊本県山鹿市に独り移り住む。平成八年、初めて読売新聞西部歌壇に投稿した一首が秀逸に採られる。これを機に短歌結社「牙」に入会。日々酒浸りの中にあって短歌が唯一の生き甲斐となり没頭。その後、中学の同窓会が縁で平成十三年 松浦紀美子と再婚。同時に作歌を中断し「牙」を退会。短歌の初歩から手ほどきを受けた師石田比呂志氏には不義理の限りを尽くし現在に至る。茲に上梓した歌集は自らパソコンにて編集、製本という手作りのものであり誠にお粗末な装丁本となった。しかし酔漢が詠み棄てた拙い歌を盛る器としては却って相応しいものとなった。
私は十八歳にして故郷を離れ何ら母親を顧みることもなくいつの間にか四十年という歳月を費やしてしまった。あげく酒が災いし尾羽打折って単身帰郷したのだった。その間不肖の息子の身の上を案じつつこの世を去ってしまった母の仏前にせめてもの償いにこの一本を捧げたい。また嘗ての日々私を励まし心ある叱責を賜わった親しい友人知人達、また身内の者に限り恥多き日々の記録として読んで頂ければ幸いである。
なお題名の「無明の酒」は広辞苑によると「無明が人の本心をくらますことを酒にたとえていう語」とある。さらに「無明」は真理に暗いこと、一切の迷妄、煩悩の根源、三惑の一とある。断酒して二年が経過した。いま漸く自己本来の本心で生きていることを実感する。以って積年の深い無明の淵に喘ぐ私を救い上げてくれた妻に対し衷心より謝意を表したい。反面その代償として歌作を失い一抹の寂しさを覚えているのも事実である。気がつけば齢既に六十も半ばを越えた。今後は辛うじて歌に支えられた蹌踉の人生ではなく確固たる人生に支えられた自然体の歌を詠みつつ残生を過ごしたい。一日も早くその日の来たらんことを願っている。
まとめるにあたって姉の石川弘子に校正の労と跋文をお願いした。ここに感謝とお礼を申し上げたい。

                     

      平成十五年正月  福田 正弘

 

 

 歌集 無明の酒 


平成八年

 独り身

小綬鶏の鋭き鳴き声を一瞬に吸収したる杉木立はも

妄想ゆ覚めて男が小便をせんと立ちたり外は五月雨

木苺の落つる山陰歩めれば不覚自然の涙零るる

黄なる花南瓜の花の三つあまり露ふふみ咲く母の忌の朝

交尾をば終えし揚羽が玉砂利にしばし憩いて飛び立ちにけり

秋蜻蛉群れ飛ぶ里にわれ立ちて尿放てば人の恋しき

野分立つ雑木の響みいやまさる日暮れの径を下りて行けり

本箱の上が仏壇ラジカセと並ぶ花瓶に茶の花挿せり

岩走る垂水の淵をぬばたまの黒き蜻蛉がゆらゆら飛ぶも

里芋と烏賊の煮物のわれながら上出来なれば寂しくなりぬ

いざ飯を食わんと声に発すれど応答のなし独り身なれば

母の忌を終えて安けき昼去りに蟹の甲羅をせせりて食えり

両の手を股に挟みて眼をば閉ずれば笹に降る雨の音

 

平成九年         

 初雪

むらぎもの心の憂さのつれづれに竹輪の穴を覗くなどせり

ぬばたまの闇夜となりて硝子戸に蒟蒻を食う男が映る

指の腹に触るる金釘冷たかり独り住まいの厠の釘が

天つ陽の光横ざま差し来たり薬缶の湯気は切れ切れ上る

一家の主たりしは昔にて振れば瓢の種子が鳴るなり

南天に懸かる繊月しかすがに今宵歯に染む蕪ら粕漬け

雄物川の鯉は底いに沈めるや肥後国原に初雪が降る

庭隈の石に座りて栗を食う鰥夫に今日の西日が差せリ

野良たりし猫が出て行くその先にわれの知らざる世界があらむ

夕暮れて雑木林に戻り行く猫は野良たりし時の塒に

 

 無明の酒 

スリッパを踏みてごめんと独り言い笑いて居たり厠の中に

野球帽被りしままに芋を剥く鬱悒き男悲しくないか

珍しく酒を控えし今宵にて背戸のお山に梟が啼く

ジーンズがへの字のままに脱がれたる畳の上に酔い醒めており

酔い酔わす無明の酒の悲しけれ石ころ一つ蹴りて戻り来

菜の花を茹でてポン酢をかけて食う寂しくなしと言うことのなし

腰板の釘の頭はわが死する時にも光放ちおるらむ

湯上りののっぺらぽうの振り魔羅と硝子戸越しに眼が合えり

 

 還暦

還暦を迎うると言うは寂しもよ日ノ岡山に黄砂が降れり

爺ちゃんと呼ばるるならばまだ許すされど孫らは爺やんと呼ぶ

しかすがに来たりて坐る止まり木にわれより強き男が坐る

人居らぬ木の下陰に置かれたる一輪車あり裏返されて

温みたる天地の水は筍を土の面に押し上げにけり

朝風呂に浸かりながらに握りいる二つ陰嚢に重量のなし

梅雨晴れの空の明かれる天窓をわが身突き突き飛ぶ蝿のあり

 

 土用の鰻

雷は遠くに鳴りて現身は独り土用の鰻を食えり

何せむにわれの視線の行くところ背戸の臭木の花の明るさ

昼更けを蚊取り線香匂うなり戸の外に笹の風が渡りて

幾らかは酔いの回りている夕べ西方浄土の光が差せり

陽の差せば湧き上がるがに蚋の飛ぶ昼を来たりて墓石洗う

辰巳より陽の差し来たる頃おいを起きてバナナを食う恙無し

瑠璃色光珠実蛇の髭赤色光珠実万両色即是空

雲の間を渡る日輪えぐられし砕石場に翳り移せり

 

 

半生の拙かりしも昨夜の夢昨夜の夢とぞ鷽が啼きける

風鈴はいたく忙しく回りおりメイストームの終わらんとして

降り注ぐ五月の雨は平凡の軒を下りて樋より落つる

さりながら夕べ鰥夫は眼澄む鰹一尾を下げて歩めり

雨の音聞きて詮無き独り身は厨の灯り消さんと立てり

「次の世は鬱悒き虫となりてこよ」姉の言うなり酒止められず

携帯電話耳に何やら話しつつ現役らしき男が歩む

しかあれど酒止めたれば何のため生きているのか分からなくなる

飯はチン魚もチンとして朝餉涙催すほどにもあらず

裏山に杉の響もす音聞きて汁かけごはん食べているなり


 酢奬草

酢奬草の実をば飛ばして遊びおり還暦の日のこの夕間暮れ

ぬばたまのこの夕暮れの杉木立風の止みたる後の静けさ

雨音を聞きつつ梅に塩を振るわれにも少し言い分のあり

頬白が小虫見せびらかすように暫し門柱にいて飛び去れり

合歓の花ひとつ開けば浅薄の涙湧き来るあわれ眼は

廃屋の裏に藍色玉花を咲かせておりぬこの紫陽花は

落ち溜まる薔薇の紅それぞれにおのずからなる濃淡のあり

 

 入道雲

朝々に母を思いて合わす手を序でのごとく父にも合わす

羽を閉じて葛の葉裏に止まりたる揚羽蝶あり台風過ぎつ

仏前に末成トマト供うれば昔が匂うふいの如くに

熟寝より覚めて厨の暗がりに独りメロンを食いにけるかも

夕つ方ショパンの曲を聴いている男よほかに為すこと無きや

原爆忌映す画面に鳴く蝉と背戸の蝉とが和して鳴きけり

藍は肥後白は薩摩の野朝顔庭の隈みに今朝開きたり

ひさかたの入道雲は茜差す日ノ岡山の方より湧けり

 

 糸瓜

山陰の干物うろくず炙りつつ夢の脈絡辿りていたり

野分立つ夕べとなりて寄生木の実があまた落つ檪の下に

みちのくの青霧る湖に亡き母と結び食いしを臥床に思う

赤まんま野菊コスモスからすうり幼去りたる玄関先に

今日も服む錠剤二つ紅白が安堵のごとく喉を下る

笹竹を矯めて零余子を採らむとす零余子は落ちて落葉に隠る

真直なる糸瓜と曲がりたる糸瓜何れもひとつ蔓より垂るる

蝶どちに相性ありや寄り添いつ絡みつともに舞い上がりたる

 

平成十年

 喜多八の海老

火を点けて暫し眺めていたりけり鍋の底いの里芋の白

部屋篭る秋の彼岸の昼更けて頼りなき咳ひとつ出ずるも

花群れの中に死にたる蝶ひとつ慎みのごと羽を畳めり

一夜さを水にふやけし大豆をば擂鉢に擦る擂粉木持ちて

虚弱児のような黄菊のひょろひょろが数多蕾を点けているなり

しみじみと苫屋の庭に潰れたる熟柿くれない霜月あした

釈然とせぬわが歩み舗装路を行く蟷螂に道を阻まる

母の忌ゆ戻り来たりて一人食う折の仕出屋喜多八の海老

野良たりしミーちゃん姿良くなりて箱の塒に円に眠る

東の天に朧の円月霜月今宵蛙が鳴けり

 

 歳晩

沈丁は雨に濡れおり思ほえばいろいろの事われにも有りき

しろたえの大根一つわれ独り暮らす厨に歳改まる

韻律は斯くも猛かる調べにて優しきかなや実朝が歌

白玉の小芋里芋真清水に沈めて独り新年来たる

焼き魚白和え豆腐高菜漬け白栲の飯いざ食わめやも

幼子の髪を束ねし赤き紐誰が掛けしか梅の細枝に

独り身と言えど人並み笹持ちて蜘蛛の巣払う歳晩なれば

点滴管纏うごとくに蔦蔓巻きて佇立す櫟古木は

湯上りの脛に痒み止め塗りているわれ醜くからん客観すれば

理性心在らずば人も安からん猫に言問う正月の酒

ストーブの上に餅は膨れおりあるいは理性過多なるわれか

 

 七草

七草の七日を過ぎて温かき雨降り出ずる正午過ぎてより

七草の粥を温めて独り食う正月七日われ恙無し

草の秀をぽとり落ちたる雨雫その一滴乾坤一如

つくづくと禿頭寒し剰え食ぶる雑煮の餅の硬し

必定は生老病死しかあれど二度咲き桜雨中の桜

二度咲きの桜花咲く里山はすでに病舎を否む明るさ

想念の尽きたるときに降りきたる雨は自然の力を持てり

アンテナに鴉が一羽止まりいる刻の静けさ空の静けさ

 

 一日断酒

おのずから母の墓所に来て立てり骨の折れたる洋傘さして

酒断つとわれ降り立ちし病院の玄関の前カンナが赤し

土の面に落ちてカンナのいや赤し正真独り生きてゆくべし

断酒会うさん臭しと思いつつ贖罪誓う詞に和せり

精神科病棟今朝の食堂に挿しし毬栗三つまり青し

毬栗を挿す食堂に心病む人は跼みて飯食うわれも

病院の夜の厠に尿する隣の尿われより長し

酒依存症わが行く道を心病む女が独り波布茶を摘めり

病棟の窓に折々仰ぐ雲今日見る雲の動かざりけり

アルコール依存症われ動かざる雲を見ており格子の窓に

晩秋の月は天心に円なり一日断酒一日断酒

 

 昼蟋蟀

三階の外科病棟の暗がりに蟋蟀が鳴く澄みたる声に

梅干が床頭台に納まりて入院患者らしくなりたり

病室の手摺に洗濯物を干す序列のありてわれ端に干す

病棟の湯沸かし室の片隅に昼蟋蟀の鳴ける寂しさ

車椅子止めて調理場覗けれど調理師たりし日の母あらず

「もの言わぬ四方の獣」子を抱く母が行き交う小児病棟

眠れざる患者が独り仰ぐ月中秋の月天心の月

ひっそりと朝餉摂りいし爺さまが独りホームへ移されて行く

今宵見る仲秋の月澄みわたり東病棟あまねく照らす

常夜灯点る廊下を車椅子漕ぎて検尿コップを運ぶ

湿りもつ風吹き抜くる病室のベッドの上に足の爪切る

歌作る午前三時を看護婦の懐中電灯が照らして行けり

空間に糸を垂れたる夜の蜘蛛ギブスの脛の無性に痒し

病室に残るは二人寝たきりの老人とわれ休日寒し

 

 野菊の盛り

洗面の女患者ら姦しく斯くてこの国滅びゆくらん

病室に真夜目覚むれば窓際の白き花瓶に稲妻光る

ブラインドの隙より差せる秋の陽が白きシーツに縞目を映す

窓際に老爺が干すはブリーフに相良観音大祭タオル

回診に従き来しナースまだ若くふともカルテを取り落としたり

午後六時報らすチャイムの鳴り渡り外科病棟に配膳車来る

鼻梁良き面に寝たきり婆さまが夕焼けこやけ歌いはじめつ

さはあれど梯子酒をせしはあのあたり夜の屋上の風に吹かるる

起き伏しの歌くず十首文化の日病院食の赤飯を食う

あな嬉し試験外泊夜香木ほのかに匂う路地裏歩む

病棟の甍を照らす今宵月いざ帰らばや独りの家へ

師走には関わりなき身ポケットの中に触れたるライター温し

足の傷癒えて今朝はも戻り来し独りの家は野菊の盛り

 

 昼の湯

高空に昼の半月仰ぎつつ青ねぎ一把下げて歩めり

肥後平野苅田上空晴れ晴れと鶫飛来す千羽の群れが

一本の煙草半ばに踏み消して物売り人は呼び鈴押せり

パンジーを植うる老人ボランティア斯かる動作の即ち簡素

母の忌に集う同胞二人連れわれ独り者団子を抓む

稲刈りを終えし田んぼに鳩の群れ降り立つが見ゆ独りは寂し

老いらくの片恋ひとつ置いて来しスタンドバーの前を過ぎりぬ

柿三つ母の墓前に供え来て虚けが昼の湯に浸かりおり

 

 離別

呉竹の世を狭くして棲むわれの家の廻は女男の笹山

婚儀には招かれぬ父電気屋にシェーバー選ぶ子に贈るため

「結婚を一応告ぐ」と子の電話一応と言う言葉が付きて

霧込めて今朝は見えざる方角に向かえば帰心自ずから湧く

雉鳩の番来たりて黐の実を啄ばみており秀枝がゆるる

風邪癒えて歩み来たれる里山は田の面一枚なずな白花

坂道を歩めるわれはまたしても上り順調下りに転ぶ

秋雲は山懐に滞り妻に離別の手紙書き終ゆ

 

平成十一年

 飛ぶ夢

杉森に一本高き杉のあり久しくわれは飛ぶ夢を見ず

今日一日電話は鳴らず夕間暮れお茶漬けご飯独り掻っ込む

リアリティーもちてわが性描写せし夢から覚めつ吾が負の性を

痒き所へ手の届かねば背中をば柱に擦りている今日の昼過ぎ

如月の四温の夜更け夢見しか犬の秀吉声引きて鳴く

如月の山路四温の温なれや頬白ひとつわれに傳き来る

リビドーは搦め手からも攻め来たる斯かる寒夜の犬の遠吠え

金、木星近く並べる今宵にて空を仰げり酒色縁なし

用無くてわれの来しかば姉ひとり落葉掃きおり箒を持ちて

人参と牛蒡ささ掻く午前四時ラジオは異国の丘を奏せり

さっぱりとなりて床屋を出でくれば山の端の上月円なり

神楽坂横寺町の青春に手握り呉れし芸妓その後

「戦場に架ける橋」とう映画見きわれは十八芸妓二十九歳

「必要の無い人」と言うドラマをば独り見ており夜半に目覚めて

 

 般若湯
独り居の男炬燵に目の覚めて冷えし葛湯を飲み干しにけり

ストーブの上の薬缶は鳴りいつつ酒断つ今日の命何ぞも

今生の断酒誓えば仏壇の父母の写真がまたかと笑う

今夜こそ酒に飲まるること勿れ父母の写真に手を合わすなり

滾ぎち湯に青菜染まりて青々し無明の水の嗚呼般若湯

よべの酒己疎みて不貞寝する師走九日子の誕生日

冬の夜のぬばたま闇の硝子戸に映るのみなるわが首ひとつ

ひこばえの青戦げれど倒木は再び天を仰ぐことなし

玄米のご飯に薺はこべらを茹でて食いけり独りの食に

三月の小糠雨降る夕間暮れ櫟秀枝に鳩止まりおり

昼寝より覚めたる犬が欠伸して独り住まいのわれ恙無し

 

 春一番

黴ふける餅を水に沈めおり所詮この世は斯くの如しか

恋しみてわれ来つれども栗の木は未だ芽吹かず山風吹きて

栗の毬掃き寄せられし山畑へ登り来たりて汗拭うかな

朝まだき窓を開くれば郁子の葉は弥生の雨に濡れて耀よう

泥白くこ乾りつきたる布靴は母晩年の歩みを残す

玄米のご飯噛みつつ恋うるかな母と暮らせし三月余りを

三寒の寒の戻れる枯れ枝に頬白ひとつ膨だむが見ゆ

部屋内に洗濯物を干し終えし弥生曇天鶯鳴けり

 

 零落の星

春一番吹きし夕べの庭の面に杉枯葉落つ懐かしくもあるか

玄米の煮ゆる蒸気の音のして東雲の空明るみにけり

体調の良きこの朝は暗きより起きて玄米ご飯炊くかな

笹鳴りは滝の音にぞ聞こえける春一番の風が吹くなり

ひさかたの夜の明けぬれば杉森の上に滲める有明の月

杉木立ち右り左に揺れ止まずむらぎもの心やむときに病む

うつそみの性、精、流転ひとしおに昼過ぎてより雨降り始む

零落の星もあるべし瓢箪の棚より落つる雨だれ一つ

 

 岨路

木苺の白花笑う岨道を犬曳き歩む今日の夕暮れ

起き出でて菠稜草の種を蒔く雨もよいする朝の庭に

老ゆるとは喪失の謂い小雨降る雑木林に頬白が鳴く

春の雲おぼろおぼろと方便なし老眼鏡の修理に行かな

寝違えの首回すなどして居りぬ花冷え今朝の臥床の中に

人の来る気配に立ちて小窓より覗けど楠の若葉照るのみ

この夏の精神病舎に捏ねたる埴の灰皿いかになりけん

いず辺なる山の斜りに育ちしか温州蜜柑食えば歯に染む

 

 酒を売る街

今日もまた終日人の来ざりけり厨に鯖の煮ゆる音して

恋敵並ぶスナックカウンター敵はロイヤルわれは焼酎

夜の街に転びて己たしなむる我とわれあり同行二人

寂しさに徹するんだね独りごち飲むバーボンの氷相和す

半生は牛後の歩み吸い殻の長きを探す灰皿掻きて

居酒屋の前に転べば眼鏡飛び躑躅の花の中に消えたり

恋着も妻子も捨てし糞袋糞の袋が今日の糞放る

酒を売る街に夕暮れ近づきてああ華やかに夕茜せり

 

 栴檀の花

明けぬれば夢の続きに紫の煙りておぼろ栴檀の花

行き当たりばったり者と母言いき夕餉の菜の早蕨苦し

馬鹿犬の吠え立つるから目の覚めてにれがむ夢の顛末おぼろ

膝頭したたか打ちて感と叫ぶ笑う者なき独りの暮らし

さしあたり旅費が惜しくて爺ちゃんはメロディー電報打っているのだ

信仰心有る弟と無きわれと天満宮に餅を食えり

熟寝より覚めし晝更け聞こえ来る祭り太鼓に緩急のあり

 

 息子 

職工の息子は油染みし手を洗いさっぱりと鰻を食えり

車両整備士の節太き手に鰻食う息子の貴賎詮り居にけり

「欲望を垂れ流してはいけません」とて十歳のわが息子言えりき

夜更けはやっぱり寒い独りなり棄てた家族はもう寝たろうか

渦巻きの蚊取り線香ひと夜さを燻りて悪の軌跡を残す

人疎むおのれ心は日一日篭もりて写す茂吉の歌を

青竹を切りて物干し竿二本アル中われの今日の労働

いささ虫書物の上に登り来ておのづ目的あるがに歩く

 

 肥後椿
雨降れば見らくし飽かめ家の周り女笹男笹の零す雫を

腑抜け者この腑抜けめと蔑まれ昨夜の徳利をまた引き寄する

栴檀の花を仰ぎていたりしが遂に淋しき顎鬚を撫ず

棚の上にあるしろたえの塩の壺夕稲妻に青く光れり

歩行器を押して媼の来るが見ゆカーテン引きて居留守使わな

朝早く起きて胡瓜と人参の浅漬けを揉む男ありけり

沈黙は自己顕示なり肥後椿やがて一輪ほとりと落ちつ

 

  蝉

夕暮れの森の奥処ゆ声清く蜩蝉は鳴きいづるかな

夕立の雲は俄かに広ごりて蜩の声遠くなりたり

歌一首作りしのみに日が暮れて蜩鳴けば飯食い始む

人恋しはた疎ましき夕間暮れ背戸の蜩鳴き出づるかな

蜩の網戸隔てて鳴きおれば湯船の中に動きかねつも

雨止みて陽の照りくれば一斉に油蝉熊蝉鳴き出づるかも

明けぬればはや熊蝉の鳴き初めてわれ米を研ぐ一人のために

薄明に至らんとする頃おいに一つ蜩鳴き始めたり

白々と夜のあけたれば細々と鳴く蜩の薄命の声

アルコール依存病舎に記しける日誌棄てたり塵の袋に

雨止みて笹動かざる晝更けを禁煙五ヵ条壁に貼るなり

あら草の中のくれない百日草去年のわれにも色々ありき

みちのくの南部砂鉄に作られし南部鉄風鈴肥後に来て鳴る

 

 蹌踉

断酒して十日目今日の体操に足上ぐるとき足蹌踉つ

酒断ちて宴に座るわが前を南無阿弥陀仏と短歌の師過ぎつ

四十年飲み続けたる酒断たん今宵瞬く光年の星

山近く中腹あたり片雲の滞りおり夏風邪癒えず

山の端に朝日子昇る頃おいを未だ残れる天心の月

中宵の厨の棚に伏せられし茶碗ひとつに安心のあり

夏風邪に臥やる独り身六十二歳祭囃子の音聞こえ来る

台風の近づくらんか吹く風に女男の笹竹片靡きせり

盆明けに宅地開発始まらん感慨深き森に入り行く

開発の為に切らるる合歓の木の繁枝は風の中にて動く

群れながら縦横無尽に飛ぶ蜻蛉しかすがに群れ逸るることなし

幼くて未だみずみずしき蟷螂の朝の窓の網戸を歩く

食材の宅配ねえさん腹押さえ悪阻ひどしと言いて行きたり

 

 入院

病棟の裏庭霧らう朝ぼらけ笹に眠たき烏瓜の花

看護婦の押し来る治療ワゴン車の響き弛たし朝の歩廊に

廃屋となりし病舎に隣りたる霊安室に夕陽が差せり

喧騒の恋しき今宵まな板に烏賊を寝かせて臓腑を抜く

黒蝶は仮想現実のごとくして石に止まりて羽を平めり

露草の葉裏隠りに馬追の髭の動くを見て居たりけり

降る雨は軒を下りて杉枯れ葉溜まる樋より糸引き落つる

入院の為に放ちし猫のミー戻り来たらず百日草咲けり

 

 薄明

薄明の庭の草生にしろたえの朝顔ひとつ開くその音

薄明の座禅一柱寂然と在りしたまゆら蝉の羽ばたき

鳴き出づる熊蝉の声あるときは哭するごとき声にて鳴けり

熊蝉の鳴き止むしばし昼深しわれは西瓜の種飛ばすなど

寝転ぶも気兼ねはいらぬ独り居に玄関の床涼風の道

杉森の上にくっきり夕の虹今年の夏の祭りも終わる

忙し気に簾の裏に来て鳴ける今年初めの轡虫の声

山の端に落ち行く月の赤くして中宵の空未だ明るし

 

 日の岡山

水張田に頭浮かべて鳴くらむか夜闇の蛙騒々の声

台風の近づく夕べ栴檀の繁枝動かず鳴く法師蝉

神無月入りせし今朝は樟脳の匂う褞袍を羽織り米研ぐ

野分去り未だも青き山近み襞の濃淡くっきりと見ゆ

街角の赤きポストに妻当ての離婚届けの封書を落とす

片麻痺のわが弟の差し入れの土用丑の日鰻弁当

飛んできて机を歩く羽蟻のその去就をば入念に見つ

老いらくの恋文ひとつ投函すポストに傘を差しかけながら

午前四時起きて茂吉の歌写す時に風得し風鈴が鳴る

雨混じり風吹く夕べ方便なし冷蔵庫をば覗くなどせり

しろたえの菊の花びら二、三片暁の畳の面に寝ねつ

ははそはの母より享けし癖のあり例えば右を向きて寝る癖

若き日の父も目陰し見たるべし日の岡山の赤き入陽を

かなぶんは迂愚の身なれば硝子戸に頭を打ちて落下せりけり

 


平成十二年
              

  居酒屋

居酒屋を出でて路べに放る尿あわれほのぼの湯気立ち上る

歌会の戻りに寄れる酒場にて歌詠む阿呆と絡まれている

飲まなけりゃ良い人なのにネエあんた受話器の先に女将が言えり

灯の消えしスナックバーの戸の外に居座るわれを猫が見て過ぐ

定命は決まってますと寂聴尼故に昼酒飲んでおります

穏便に穏便にとて詫び居るにわれを引きずる酔漢は誰

小蟹追いし澤水凝ごれども水底光りて砂動く見ゆ

里芋の煮っ転がしの煮えながら用なき一日暮れんとすなり

吹く風に男笹女笹の靡くなり吹かるる侭のその自在はや

春の雪落ちて地に消ゆこれからは長いものには巻かれて生きん

如月の篁騒ぐ今宵にて降る粉雪は斜めに降れり

テーブルの陽の差す方へ西洋桜草の鉢を移せば紅笑う

雪消えし畑土黒く去年のわれいろいろありき酒のうえにて

 

 抗酒剤

抗酒剤服用しつつ酒飲みて夜半の窓から顔出している

アルコール依存症われ朝々に飲む抗酒剤透徹の水

抗酒剤有り難やなと手を合わすあわれ五勺の酒に酔いつつ

しばしばも辞書繰りながら歌作る冬至長夜の首筋寒し

空蝉の恋は無償の行為なり巷を行けば夜の木枯らし

白菜にあら塩振りて手に揉めばナルシシズムの涙出づるも

冬ざれの合歓の裸木枝広げ千手観音のごとくに立てり

中古屋に購い来たるテーブルの傷は過去語ることなし

凡そは酒に纏わるわが過去と数多傷持つ座卓と何れ

窓の外は雪降りながらストーブの薬缶口より息吐きにけり

朝夕を使い古りにし炊飯器蒸気吹き上げあな息づかし

 

 ほとけのざ

降る雨にいつかほのぼの紅染めて濡るるが侭に梅ふふみたり

土の面に落つれば消ゆる肥後の雪一人暮らしの友逝きにけり

通院の戻りのすさび道のべに摘むはこべらは手に柔らかし

覚醒の後の暫らく気がつけば現身われは独りなりけり

元妻に送金をして戻り来る肩に止まるは何の絮実か

薄日差す寒の戻りの厨べに傷む苺を食みにけるかも

来む春の昼ふけにして若苗の獅子唐の葉に雨は降りつつ

窓越しに明け行く空は曇りにて呼ぶ小綬鶏の声や鋭き

陽だまりの畑の隅なる一つ墓紅の木瓜挿されていたり

ほとけのざ花大根にすみれぐさ来む春の花むらさきの花

ほとけのざ土手の斜りに群れ咲けり天つ光の差すひとところ

 

 春疾風

意気地なく夕べを居ればゆくりなく霰を撒きて春疾風過ぐ

ポケットの中なる鍵の手に温し朝の小床に酔い醒めたれば

紫の色古びたる沈丁の花に黒蝿止まる夕暮れ

梅が枝の芽吹ける侭に折れたるを花大根の傍えに挿せり

ぶっかけて食わんとぞ割る卵にて今朝の卵は黄身盛り上がる

庭隈に馬鹿犬の糞掬いいる六十三歳四月生日

硝子戸に映るわが影見居りしが目深の帽子あみだに被る

電燈の紐に繋ぎしネクタイが風に吹かれて揺れているなり

昨夜の雨止みしかば早くより孟宗林に人の声冴ゆ

貰い来し昨夜のお結び食べている酒依存症今朝の梅雨寒む

朝床にビールの栓を抜きしかば眼悲しく飼い犬は見つ

飯食うと出でて来しかどさりながら北海ほっけに冷酒が旨し

わが右手の止まぬ震顫左手もて押さえて写す茂吉の歌を

点滴は疾く滴々と落ちいたりわが醒めしとき人は居らなく

 

 足高蜘蛛

貧乏になれりとまでは思わねどスナック纏めて買う銭が欲し

いつしらに足高蜘蛛と住み古りて互みに歩く夜の厠へ

電灯を点せしときに肉太き足高蜘蛛が畳を走る

酢奬草の種子飛ばすさえ妬しもよ前立腺を切除せしより

軒下に無聊をかこち垂れ下がる洗濯物に女物なし

紅のサスペンダーに歩めれば街の雀がダサいと言えり

薄暗き床に淡竹の筍が四、五本在りぬ朝起きしとき

灯に寄りて来たる拙き蛾がひとつノートの上を跳梁すなり

 

 立ち飲み酒場

この夏の帰省ラッシュを言うラジオ係わり無き身米二合研ぐ

晝深し半裸の男髪を刈る電気バリカン逆手に持ちて

舗装路を己が頭の影踏みて歩む真昼間青葉吹く風

人様に負くるも自分に負くるなと鯵の小骨が喉を刺せり

背後より吹き来し風が素っ首を吹きて網戸を抜けて行きたり

われが乗る外に乗る者なき車洗うホースの先に虹出づ

空き瓶に煙草の煙吹き込みて栓をせしかど何も起こらず

製鉄の街も寂びたり昼中の立ち飲み酒場ビールが温し

沈丁の花の木下に乾きたる犬の糞在り糞恙無し

梔子の花の匂える厨にて主裸で素麺啜る

 

 平成十三年             

 舗装路

竹柵の苦瓜割れて舗装路の上に零れし種子の運命

舗装路に潰れし朱色たまずさの雨に濡るるが窓外に見ゆ

子規左千夫節赤彦夫々に昭和平成時代を知らず

山牛蒡の茎の赤きが道のべに抜かれてありぬ霧に濡れつつ

菓子盆の中なる朱の柿四つ安堵のごとく静もりており

こころ痛む朝わが立つ庭前に山茶花一つ二つ含めり

膝頭冷えつつ昼寝から覚めぬわが残生の大凡見えて

暑かりし夏の名残と木の下に犬の掘りけん浅き穴ひとつ

懺悔の心に歩む岨道の上空にして白き月影

東を迸りつつ輝きて出づる日輪黒き山より

掌に朱の烏瓜弄ぶ鰥夫に再婚話がひとつ

永かりしわが簡素なる旦暮はや終らんとして野菊は盛る